20210105

 

久しぶりに1日講義を受けたら疲れた。けれども事前に頼んでいたので同期ちゃんと一緒にホテルを検索した。ほどなくして以前同期ちゃんの先輩が泊まって良かったと勧めてくれたホテルを思い出してそのホテルの予約に成功した。

 

少し前まで執着していたものたちー花火とか旅行とか草津温泉とかへの執着はおそらく消えてしまった。今執着しているもの、犠牲を払ってでも手に入れたいものはたぶんない。もしも大金が手に入ったら、好きな人たちにとプレゼントを贈りたい、くらいの欲はあるけれども。でもそうやって自分の行動によって他人が喜んでくれたところを見て心を満たそうとするのって相手への純粋な愛ではないじゃないですか、たぶん。そして自認としては相手への好意や愛ゆえに物や労力を差し出すのって私の母が私にしてきたことで、そうして彼女は私に対して自己犠牲的な愛を差し出しているつもりだったと思うんだけど、必ずしもそうとは言えないと思っている。自分が差し出したもので相手が自分の望んでいた反応を返してくれるということが真の目的、とまで言うと過剰な表現になってしまうかもしれないけれど、少なくとも好意的な反応(とそれによって自分の心が満たされること)を全く期待していなかったと言えば嘘になると思う。

どうして男の人にあれこれ差し出そうとするの、みたいなこと言われたことあるけど、私は母が私にしてきたことを男の人にしようとしてきたことになるのかもしれないなと思った。

 

出自は選べないからこういうこと書くのは不謹慎な気もするんだけど、親のこと批判しながらも親が渇望していたものを子もまた追い求める/一見そうとは気づかないが親と同じ行動を子が取っている、みたいなの、業…という気持ちになってつい見つめてしまう。

 

今日はいつにもましてひどい文章になってきた。

今日は女性の友人から北野天満宮のお守りと鉛筆をいただいた。神様のこと全然信じてないというか真剣な神頼みは好きじゃないんだけど、お守りをくれる好意は嬉しかった。落ちる落ちる受かるわけない受かったら天変地異が起きると言ってきたけど、受かりたいって言っても良いことにしようかなという気持ちになった。

 

 

私はねえ、しばらくは音楽も映画も小説もうまく楽しむのが難しそうだから大金手に入れて好きな人たちに貢ぎたいんだよね、それよりもすっと消えて楽になりたいなあとは思うけどそれでも好きな人たちが喜んでるとこ見たいじゃん、ね。

物で満たせることは物で満たしても良いじゃない、満たす術があるんだからさ。だから贖いたいよ。後先なんて考えずに。