締める縛らる

 

【覚書】

自分で自分の首を締める。

自分自身の規範や価値観に縛られる。

 

順序でいうと後者が原因で前者の状態に陥るが、それは置いておくとして。

 

 

私は自分が納得できる/できないということにかなり囚われている、というかそこはもうどうしようもなく狭量であることをやめられそうにないから先手を打って納得できる選択を、という考えと行動原理に収まっていると思っている。

 

その納得できる/できないのひとつの指標が“誠実さ”であり、これにこだわった行動を取り続けるのは長期的に見れば周りの人々に不信感を持たせずに/人々から不信感を持たれずに済むことに繋がり、倫理的に(?)善い/正しい、という話に留まらず、私にも周りにも信頼ひいては安心に繋がること、ある種合理的ですらあるのだと信じて疑ってこなかったのだが。

 

 

 

なるべく嘘はつかないとか、デートのお誘いや交際の申し出にははっきりとyes or noを伝えるとか、そういうことが誠実で、そうすることが正しい、そうするべき、それが自分の納得にも繋がる、他人の不実を咎める、糾弾する、攻撃する…。

 

誠実さとは自分以外の存在のためのものであり、自分への見返りを求めていた時点で清廉な誠実さではなかったのだとようやく気づきました。

まだ認めきれていないし受け止めきれていないけれど。

 

 

誠実なんて正義みたいな言葉で私は自分自身への規範を身につけると同時に正論で自他を殴り続けていたことになる。

 

だからといって今まで信じてきたものが全面的に間違っているとは全く思わないけれど、じゃあどうすれば良いのかもまだ分からない。

 

 

自他共に認めざるを得なくなるほどのことで手を汚せばもっと自他に寛容になれるのか、それは寛容なのか、不都合への無関心なのか、地獄への道なのか、じゃあ今はどこを歩いていてどこに向かっているのか。

 

 

もう誰のことも責めたくないけれど、あなたなら“分かってくれるでしょ?”って言われたくない。二度と。誰からも。

 

 

正しくなくとも愛したい。否、愛されたいのだろう。

 

いつになったら他人の幸せだけを考えるようになれるんだろう。好きな人の幸せだけは自らのことを度外視して考えたいのに好き故にそれが困難で、私も幸せが欲しいのだと認めるしかないみたい。