変えられることとそうでないことの境目

 

境界は大体の場合残酷、というより残酷さを感じるときにより境界を意識するんだろうけれど、そうはいっても境目はできてしまう。

変えられないことを理由に、例えば出自や名前、病気を理由に差別するのは良くない、ということはおそらく一般に否定されない文だが現実には…

 

 

SNSに自らが投稿する内容については、変えられる、というかそもそも投稿しない、アカウントを生成しないという選択肢もあるわけで、けれどもそんな簡単な話じゃないんですよ、にという思考回路あるいは価値観を持っているように見える人たちがいるようで少し驚いてしまった。

 

なんというか、ポジティブなあるいは建設的な理由よりも相互監視というかネガティブな感情に結び付きやすいんじゃないかとさえ思ってしまうよ、あるいは感情や表現を加速させてしまうというか。

 

誰にでもある欲でもそれとどう付き合っているのか、SNSにおいてどういう見せ方をしているのかで想定外の評価をされるのはある程度やむなしでは…と思ってしまう、今は。評価を吹聴されることに不服ならともかく、望んだ評価を受けられないのはそういうものじゃない?曲解された、と憤慨したこともある気はするけども。

 

何がいけなかったのだろう、愛していますと頻繁に投稿しているような人ほど自認が他者からの評価と乖離している印象を持っているけれど、わざとなのか、そうしかできないとしてそれで埋められるものはあるのか、はて。

 

アプリで原形をとどめないほどに加工された自撮りを自分だと認識してしまうことに私は時々恐怖心を抱いているのだけれど、それもまた自認と外からの評価との乖離と関係がある気がするが私はこれ以上言語化できなくてもやもやしている。